第1の勉強の障害:
質量の欠如
あらゆる主題を勉強する時に、質量とシグニフィカンスの両方があります。
質量とは、あなたが勉強しているものについての意味や考えではなく、実際の物体です。 これらには、コンピュータ、車、岩、風、光、熱、鳥、木、動物などがあります。
ある主題のシグニフィカンスとは、実際の物体としての存在ではなく、それに関する考えや意味を指します。
例えば、泳ぎ方を学んでいるなら、質量は水、プール、ビート板、救命胴衣などです。 シグニフィカンスには、板の握り方、足の蹴り方、息つぎの仕方などが含まれます。
もしギターの演奏の仕方を勉強しているなら、楽器が質量です。 シグニフィカンスは、ギターの持ち方、さまざまな音の出し方、ギターの弾き方などがそうでしょう。
何かを理解するには質量とシグニフィカンスが必要です。 質量がなければ、考えとシグニフィカンスしかありません。
1番目の勉強の障害は、質量の欠けた教育です。その状態での技術に関する教育は、生徒にとってとてもつらいものです。
質量が欠如した状態での勉強は、
押しつぶされた気分(まるでぎゅっと押されて、平たくなったように感じ、何も達成できず、試すことさえあきらめてしまう気分)
曲げられた気分(身体の丈夫が前方に傾いていて、真っ直ぐでなかったり背筋が伸びていないような気分)
目まいのするような気分(まるで心がぐるぐる回っているような気分)
気の抜けたような気分(活気、熱気、興味に乏しい気分)
退屈した気分(興味をひくようなところがなく、疲れてイライラする気分)
むしゃくしゃした気分(物事が自分の思ったようにいかず、腹立たしくて気分が晴れないさま。)
何かについて質量が欠けた状態で勉強していると、上記のような反応や徴候といった結果になります。
質量の欠如を処理するのに、写真は助けになりますし、映画もとても良いでしょう。というのも、それらには質量が得られるというある程度の見込みや望みがあるからです。 しかし、トラクターについて勉強している時に、印刷物や話された言葉は、トラクターの代用品にはなりません。
この重要な事実を理解しなくてはいけません。質量の欠けている状態で何かを学ぼうとすると、上記のような身体的な不快を感じることになります。
それは単なる事実なのです。 トラクターに関するすべてを勉強しようとしているときに、質量のバランスを与えてくれるトラクターがないとします。 するとあなたは:
押しつぶされた気分の顔つき
頭痛
時々目が回った気分
胃が変になった気分
頻繁に目が痛むでしょう。
例えば、トラクターについて読んでいて、質量とシグニフィカンスのバランスを取る最前の方法は、見て、触り、感じることのできる実物のトラクターです。
例をもうひとつ挙げましょう。 例えば、学校で算数の計算をするのに困難を抱えている子がいるとしましょう。 その子にあるのは、頭の中で、あるいは紙の上で、あるいは黒板で足すように言われた数字のシグニフィカンスだけです。 質量の欠如は、彼を困難に陥れる障害となり得ます。
矯正法は、彼が勉強しているもののシグニフィカンスとのバランスを取る質量を与えることです。 例えば、ジョニーにリンゴをいくつか与え、それぞれに番号を振ります。 すると、ジョニーの目の前には、たくさんのリンゴがあり、もはやそれは理論上のものではありません。 こうすることで、彼の質量の欠如を矯正し、彼の困難を取り除くのです。
周りに質量が全くない状態で何かを勉強するというこの勉強の障害は、最もはっきりと認識できる肉体的な反応を引き起こします。